「やればできる」の恐さ

「やればできる」という言葉がありますね。可能性に満ちた、なかなかよい言葉のように聞こえますね。ですがこの言葉、使うシチュエーションによっては、「てんで空っぽ」な言葉です。
下の2文を見比べてみてください。

・彼は「やればできる」ことを証明した。
・どれもこれもやってみたことはないけど、僕はきっと「やればできる」。

まず大きな違いは、実際にやったか、やらないか、ですね。前者フレーズのなんと力強いことか。しかしどうもこの言葉は後者のシチュエーションで発せられることが多いようです。

後者の場合でこの言葉を分析してみましょう。
僕はきっと「やればできる」。やはりさらっと聞くと自信のありそうな、前向きな言葉のようですね。
でもこの言葉の表すのは、「まだやってない」ということ。そしてなぜか「できる」と思っている。
やってないのにできると思うのはなぜでしょう?
それは多くの場合、まだやっていないがゆえにそれがどのように難しいことなのか、どのくらい時間のかかることなのかがわかっていないからです。
わかっていないがゆえに、根拠もなく簡単に「できる」と思ってしまうのです。

何事にも経験の浅い人ほど、このような根拠のない自信を強く持ちがちです。
なぜなら、生きて様々なことを経験していくなかで、何かを成すにはそれなりの苦労がつきものだということを人は学んでゆくから。
このような予測のつく人は、何かにとりかかるにあたって必要な準備をおこない、必要な時間を確保して臨むことで達成の確率を上げることができますが、根拠のない自信にとらわれている人にはそれができません。
何事にも経験の浅い人=塾生諸君の年代の人々ですね。実際、あなたがたの年代の人々からはこの言葉をよく聞きます。

根拠のない自信にとりまかれたまま大人になってはいけません。
ひどい目をみます。
それを回避するには次のことしかありません。「やってダメだった」という経験を積むことです。
「やってダメだった」経験はいくら積んでもOKです。
大切なのは、一度やってダメだったからといってへこたれないこと。
ただ中途半端な「ダメ」を量産するのはよろしくありません。自分が納得のいくまで頑張ったすえの「ダメ」であること。それで初めて、その「ダメ」が人生の財産になるのです。

勉強や探究に適したシーズンになりましたね。せっかくですから、納得のいくようにじっくり、全力でやってみましょう。